善意の波動に目覚めたリュウ

俺より優しい奴に会いに行く

葬式に行った話

大学時代のゼミの先生が死んだ。

思い出深いゼミだったので、他のみんなと

同じように色々書きたいのだけど…

僕の知性ゼロの文章で、しかもtwitterだと

「詩人だね」とか言われかねないので

誰も見てないブログで発散したい。


だから誰にも見ないで欲しいし、

見たことを言って欲しくないし、

在ろうことか、書いてあることについて

説教なんてマジでやめてほしい。


死後すぐに、通夜→葬儀で、平日だった割に

結構な人が集まった。みんな頑張って

有給をねじこんだりしたらしい。


結構厳しいゼミで、週一の進捗報告で

みんな作品をボロッカスに言われていた。

僕は特に進捗が悪く、毎回批評すら

受けられずに懺悔ばかりしていた気がする。


しかも留年した。作品制作から逃げていた

日々は、ひたすらパワプロの選手を作って

選手のプロフィールをエクセルに書いたり

酒に逃げたり、駄目人間を謳歌していた。


けれど、毎日深夜まで学校に残って

みんなと一緒に作業した思い出や

作品を作り終わった時の達成感、

発表後は高級ホテルの一室を貸し切って

高い酒を振舞ってくれてたり、

楽しかったこともたくさんあって


思えば、ある意味青春だったのかも。

とはいえ、その内の9割は

パソコンの前でラジオ聴きながら

ひた…っすら、作業作業だった。

守衛さんのライトに隠れて作業したことも

深夜3時に帰って、職質をうけたことも

今となってはいい思い出だ。


留年して(自分の金で行ったよ)

もう一年ゼミを堪能した身としては

弔う義務もその分あると思うのだけど

実は行くかどうかギリギリまで悩んでいた。


一つ目に当日は娘の入園式だったこと。

二つ目に、その時僕はゼミで作った映像

の漫画版を作っており、出版社からすぐ

賞レースに出してくれると言われてたこと。


ちょうど急いで漫画を修正している所で

悩んで悩んで、漫画を完成させることが

俺なりの弔いだと思ってしまっていた。

その間に奥さんは淡々と葬式の準備を

進めてくれていた。今思うとありがたい。


ギリギリで漫画は完成し、急いで新幹線の

手配をしたのち、協会に向かった。


告別式は厳かに執り行われた。

テンプレとは言え、式の序盤に

「生前色々あったと思うけど、お互いに

謝りあいましょう」なんて言われて

ダメな学生だったことを悔やみつつ…

先生も実は…厳しめの指導について、

今は何か思ったりすることがあるのかなぁ

なんて考えていたら、涙が出てしまった。


あとは聖歌を完全に後追いで、

アーメンもほとんど言い逃してしまった。

でも葬式というものは出席することに

意味があるのだと思う。


洗礼名は好きなキリスト教徒から貰って

いい物らしい。調べたら

「名門貴族の出自で、父親に反発、

相続権を放棄して、伝道師になった。

病と闘いながら伝染病が流行する地で

人々に希望を与えた」

みたいな人だった。

なーんか、先生の似たような経歴を

噂で聞いたことあるかも知れない。




懐かしい先輩たちとも会えて、自分が距離を

とっていたのに、向こうから謝ってくれたり

タバコを貰ったり交換したり…もしかしたら

先生が気を利かせてくれたのかもしれない。


大学はたまたま発表会の日だったらしく、

ちょうど怒涛の追い込み期間だったようだ。

教え子の中には式に出られなかった人も

いるかもしれないけど、多分先生なら

作品を優先しろと言ってくれただろう。


最後の教え子たちの作品は凄かった。

というか、俺の作品がショボかった。

同じ先生の教え子を名乗ってしまって

本当に申し訳ないとさえ思った。


才能は無かったけど、デザイナーとして

5年が経過して、一応大企業と言われてる

会社に正社員で籍を置かせて貰っている。

多分先生のように優秀な功績は遺せないけど

執念ですがりついていくしかない。


でも学生時代コンペとは縁のなかった僕が

もしかしたら、漫画で賞が貰えるかも…

というタイミングだ。結果は8月下旬。

題材はかつて先生と一緒に考えたものだ。

何とか、世に、名前だけでも残したい。